Procedure -The Fifth Edition-
There is no royal road to learning・・・
ある理学療法士の日記
嘘のような本当の話
4月1日。
年度初めは、朝英語からだ。
少々、集まりの悪い中スタートした。
脳損傷者からの視覚機能についてのreviewだった。
2つの視覚経路の説明から、失認、失行について述べられていた。
2つの視覚経路は、whatの経路とwhereの経路がある。
前者は、物体が何であるかについて、そして後者はそれがどこにあるかを脳内に表象する。
とくにwhereの経路はhowの経路とも言われ、上肢でのreachには重要な経路である。
もちろん、その後のgraspにも影響することは考えられる。
whatの経路については、それが何であるかを示し、その概念が失われた場合にいわゆる失行となる。
しかし、失行のとらえ方も難しく様々な認知処理を知っておく必要があるだろう。
例えば、道具自体の概念が失われた場合には、その道具の使用が困難となる。
ただし、道具自体を物体として処理した場合、行為の概念が保持されていれば行為を達成することも可能である。
これらが、その時々に応じて、行為に必要な認知的処理として行われなければ、拙劣な運動が生じるはずだ。
どうしても、結果のみに依存した視点をもってしまいやすいが、その手続きを分析する必要がある。
この理解のためには、運動制御の莫大な勉強をしなければならない。
セラピストの視点ひとつで訓練のバリエーションは、広がりをみせるはずだ。
興味深い論文だった。
今日は、またまたキャンセルが続いた。
なかなか大変だ。
おかげで、残務処理が進んだ。
なんとか仕事の処理は、現在まで追いつくことができている。
少しの空き時間を利用して、後輩の訓練に参加した。
2人のセラピストで病態をディスカッションしながら訓練を進めるスタイルだ。
一方通行でなく楽しい。
後輩も訓練を頑張っているようで、以前に訓練をした時より良くなっている。
なかなかいい感じだと思う。
ただ、次の展開で悩んでいたようだ。
運動の観察から、どこに着目していくのか・・・
判断が難しい。
あらゆる視点から多角的に分析していく必要がある。
動作観察と患者の意識経験。
この整合性が一つのヒントなのかもしれない。
ここでの乖離は、異なる方向へと運動経験を蓄積していくはずだ。
セラピストの着眼と患者の意識経験・・・これがマッチしないと訓練は成立しない。
情報を構築していくこと。
運動の経験を蓄積する上では、基盤となる問題だ。
深く、深く、入り込んでいく。
それが根本的に運動を変化させていくことにつながるのではないだろうか。
また、ディスカッションしながらの訓練もしてみたい。
夕方は、PTの症例検討会だった。
やんわりとアドバイスはしておいた。
他の後輩からは、もっと激しく意見をしてもいいのでは?とも言われたが・・・まぁ色々と難しい問題がある。
人間が成長するには時間を要するものだから、長い目でみるようにしている。
少数でやる時には、本格的にディスカスするようにしたいが・・・・
大勢だと、相互作用もしにくいもんだ。
これはこれからの課題かな。
その後、後輩と食事へ。
色々と心境を聞かせて頂いた。
先輩への苦言も頂いた。
真剣に取り組む人間をないがしろにすることだけは、してはいけないことだと思うが・・・・・
そんなことは言われなくてもわかるのが、大人であり、経験を積んだセラピストだろう。
情けない話だ・・・・
時代の先端を見ようとしている者、過去にすがっている者。
どちらが正しいかは結果だとは思うが・・・・
時代は変わるものだ。
過去にすがり、人をバカにすることだけはしたくない行動の一つだ。
冷静に、人間として、生きるのが良い。
前を向いてほしい。
まぁ、それはそれとして前進することを考えよう。
これから、論文の修正に入ろうと思う。
楽しまなきゃね。
年度初めは、朝英語からだ。
少々、集まりの悪い中スタートした。
脳損傷者からの視覚機能についてのreviewだった。
2つの視覚経路の説明から、失認、失行について述べられていた。
2つの視覚経路は、whatの経路とwhereの経路がある。
前者は、物体が何であるかについて、そして後者はそれがどこにあるかを脳内に表象する。
とくにwhereの経路はhowの経路とも言われ、上肢でのreachには重要な経路である。
もちろん、その後のgraspにも影響することは考えられる。
whatの経路については、それが何であるかを示し、その概念が失われた場合にいわゆる失行となる。
しかし、失行のとらえ方も難しく様々な認知処理を知っておく必要があるだろう。
例えば、道具自体の概念が失われた場合には、その道具の使用が困難となる。
ただし、道具自体を物体として処理した場合、行為の概念が保持されていれば行為を達成することも可能である。
これらが、その時々に応じて、行為に必要な認知的処理として行われなければ、拙劣な運動が生じるはずだ。
どうしても、結果のみに依存した視点をもってしまいやすいが、その手続きを分析する必要がある。
この理解のためには、運動制御の莫大な勉強をしなければならない。
セラピストの視点ひとつで訓練のバリエーションは、広がりをみせるはずだ。
興味深い論文だった。
今日は、またまたキャンセルが続いた。
なかなか大変だ。
おかげで、残務処理が進んだ。
なんとか仕事の処理は、現在まで追いつくことができている。
少しの空き時間を利用して、後輩の訓練に参加した。
2人のセラピストで病態をディスカッションしながら訓練を進めるスタイルだ。
一方通行でなく楽しい。
後輩も訓練を頑張っているようで、以前に訓練をした時より良くなっている。
なかなかいい感じだと思う。
ただ、次の展開で悩んでいたようだ。
運動の観察から、どこに着目していくのか・・・
判断が難しい。
あらゆる視点から多角的に分析していく必要がある。
動作観察と患者の意識経験。
この整合性が一つのヒントなのかもしれない。
ここでの乖離は、異なる方向へと運動経験を蓄積していくはずだ。
セラピストの着眼と患者の意識経験・・・これがマッチしないと訓練は成立しない。
情報を構築していくこと。
運動の経験を蓄積する上では、基盤となる問題だ。
深く、深く、入り込んでいく。
それが根本的に運動を変化させていくことにつながるのではないだろうか。
また、ディスカッションしながらの訓練もしてみたい。
夕方は、PTの症例検討会だった。
やんわりとアドバイスはしておいた。
他の後輩からは、もっと激しく意見をしてもいいのでは?とも言われたが・・・まぁ色々と難しい問題がある。
人間が成長するには時間を要するものだから、長い目でみるようにしている。
少数でやる時には、本格的にディスカスするようにしたいが・・・・
大勢だと、相互作用もしにくいもんだ。
これはこれからの課題かな。
その後、後輩と食事へ。
色々と心境を聞かせて頂いた。
先輩への苦言も頂いた。
真剣に取り組む人間をないがしろにすることだけは、してはいけないことだと思うが・・・・・
そんなことは言われなくてもわかるのが、大人であり、経験を積んだセラピストだろう。
情けない話だ・・・・
時代の先端を見ようとしている者、過去にすがっている者。
どちらが正しいかは結果だとは思うが・・・・
時代は変わるものだ。
過去にすがり、人をバカにすることだけはしたくない行動の一つだ。
冷静に、人間として、生きるのが良い。
前を向いてほしい。
まぁ、それはそれとして前進することを考えよう。
これから、論文の修正に入ろうと思う。
楽しまなきゃね。
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