Procedure -The Fifth Edition-
There is no royal road to learning・・・
ある理学療法士の日記
暑さから生まれる創造性
土曜日は、久々の出勤だった。
職場は、まだクーラーがついておらず・・・予想通りの暑さであった。
何もしてなくても、体力が奪われてしまう・・・・
少々、きついのが正直なところだ。
人間の頭は、何でも概念化してしまうもので、その善し悪しもある。
ある程度の柔軟性が、学習のためには重要な一要素になるのかもしれない。
よく、頭が硬いとか言ったりするが、まさしく概念化された象徴だろう。
感覚障害が生じている場合、感覚無いという記述をよく耳にする。
確かに感覚が失われているのだろう。
一方で、疑問もある。
人間の体はよくできているもので、多重に感覚入力が行われている。
もちろん、下行性の運動経路も同様であり、多重に再現されている。
反対側を下行するものもあれば同側もある。
感覚も同様である。
階層性の視点からは、どのレベルで交叉して入力されるのかは問題になるかもしれないが、多重であることに違いない。
連合野の機能からもそれは推測できる。
つまり、primary areaに入力された情報が、高次の領域で処理されるにつて、身体の形に反応するようになる。
さらに、この処理は両側で処理されているのだ。
そこから考えられることは、感覚が失われるとはどういう現象なのだろうか?
完全に感覚が失われた状況とは、どうも考えにくい気がする。
そういう意味では、概念化が働くのかもしれない。
以前に、頚髄損傷の方に麻痺域の感覚についてお聞きしたことがある。
その中では、自分の中では感覚がないわけではないが、完全麻痺や損傷以下は感覚がないと、医師から伝えられたという。
診断上、医師の発言は適格そのものである。
もちろん、その麻痺域の身体機能が実用的になるとも軽々しく言えるものでもないだろう。
しかし、セラピストの視点からは、その麻痺した身体を含めて動作獲得を目指さなければならない。
そうなると、その感覚がないわけでもない身体について考える必要がある。
そのケースでは、麻痺域機能に左右差があり姿勢の非対称性による二次的な問題が浮上していた。
感覚がないと思っている身体によって、問題が生じていたのだ。
視点を変え、アプローチを試みた。
曖昧な感覚と具体化していくことによって、その諸問題の一部は解決することができた。
要するに、感覚が無いという概念化が時として、残存する感覚をも失ってしまう。
片麻痺においても同様のことが言えるのかもしれない。
当然、まったく同じ現象とは言えないが、類似した点はありうるだろう。
やはり、注意を焦点化し残された感覚へ眼を向けていく視点が必要だ。
曖昧にしすぎることによって、見えなくなってしまうのかもしれない。
学習段階の視点からもそうかもしれない。
最も注意を必要とする認知段階、そして連合、自動と続いていく。
そもそものやり方と通り越して、運動を実行することにも可否を唱えなければならない。
それは症例によって、きっちりと見極める視点を持つことが必要だ。
やっているうちに覚えるだろうではなく、いかにして覚えるかを考えなければならない。
それには、莫大な時間を要するのが事実かもしれない。
2名の後輩が、真剣に患者と向き合っている。
彼らの姿勢には、自分の襟を正さなければならない。
彼らの担当患者、そしてセラピストとしての彼らには、執念を感じる。
臨床家として真摯に、患者と向き合う姿勢を改めて思い起こした。
前進するためには、必要だ。
「向き合う」ということは、単純に教えるだけのことではないのだろう。
まさに、双方向でなければならないのだ。
きっと、その姿勢は相手にも伝わり、本当の意味での学習していう基礎(能動的)ができあがる気がする。
セラピスト次第なのかもしれない。
努力、根性、労力、尊敬する研究者が言っていた言葉だが、臨床もそうだろう。
考えて考えて考え抜くことだ。
それには物理的な時間、体力、根気が不可欠である。
世の中、そんな簡単に物事が進むはずもなく、そのプロセスに多くの学習が含まれるのだろう。
動作ができたことだけが学習ではなく、その手続きが重要なのだ。
日曜日は、県士会の仕事だ。
そういえば、プロレスラーの三沢さんが亡くなれた。
中学生時代のひーろだったのに・・・
ご冥福をお祈りします。
今日も暑いが、楽しまなければ。
夕方にはポスターのタタキ台を完成させてしまうぞ。
Only advance, there begin it !!
職場は、まだクーラーがついておらず・・・予想通りの暑さであった。
何もしてなくても、体力が奪われてしまう・・・・
少々、きついのが正直なところだ。
人間の頭は、何でも概念化してしまうもので、その善し悪しもある。
ある程度の柔軟性が、学習のためには重要な一要素になるのかもしれない。
よく、頭が硬いとか言ったりするが、まさしく概念化された象徴だろう。
感覚障害が生じている場合、感覚無いという記述をよく耳にする。
確かに感覚が失われているのだろう。
一方で、疑問もある。
人間の体はよくできているもので、多重に感覚入力が行われている。
もちろん、下行性の運動経路も同様であり、多重に再現されている。
反対側を下行するものもあれば同側もある。
感覚も同様である。
階層性の視点からは、どのレベルで交叉して入力されるのかは問題になるかもしれないが、多重であることに違いない。
連合野の機能からもそれは推測できる。
つまり、primary areaに入力された情報が、高次の領域で処理されるにつて、身体の形に反応するようになる。
さらに、この処理は両側で処理されているのだ。
そこから考えられることは、感覚が失われるとはどういう現象なのだろうか?
完全に感覚が失われた状況とは、どうも考えにくい気がする。
そういう意味では、概念化が働くのかもしれない。
以前に、頚髄損傷の方に麻痺域の感覚についてお聞きしたことがある。
その中では、自分の中では感覚がないわけではないが、完全麻痺や損傷以下は感覚がないと、医師から伝えられたという。
診断上、医師の発言は適格そのものである。
もちろん、その麻痺域の身体機能が実用的になるとも軽々しく言えるものでもないだろう。
しかし、セラピストの視点からは、その麻痺した身体を含めて動作獲得を目指さなければならない。
そうなると、その感覚がないわけでもない身体について考える必要がある。
そのケースでは、麻痺域機能に左右差があり姿勢の非対称性による二次的な問題が浮上していた。
感覚がないと思っている身体によって、問題が生じていたのだ。
視点を変え、アプローチを試みた。
曖昧な感覚と具体化していくことによって、その諸問題の一部は解決することができた。
要するに、感覚が無いという概念化が時として、残存する感覚をも失ってしまう。
片麻痺においても同様のことが言えるのかもしれない。
当然、まったく同じ現象とは言えないが、類似した点はありうるだろう。
やはり、注意を焦点化し残された感覚へ眼を向けていく視点が必要だ。
曖昧にしすぎることによって、見えなくなってしまうのかもしれない。
学習段階の視点からもそうかもしれない。
最も注意を必要とする認知段階、そして連合、自動と続いていく。
そもそものやり方と通り越して、運動を実行することにも可否を唱えなければならない。
それは症例によって、きっちりと見極める視点を持つことが必要だ。
やっているうちに覚えるだろうではなく、いかにして覚えるかを考えなければならない。
それには、莫大な時間を要するのが事実かもしれない。
2名の後輩が、真剣に患者と向き合っている。
彼らの姿勢には、自分の襟を正さなければならない。
彼らの担当患者、そしてセラピストとしての彼らには、執念を感じる。
臨床家として真摯に、患者と向き合う姿勢を改めて思い起こした。
前進するためには、必要だ。
「向き合う」ということは、単純に教えるだけのことではないのだろう。
まさに、双方向でなければならないのだ。
きっと、その姿勢は相手にも伝わり、本当の意味での学習していう基礎(能動的)ができあがる気がする。
セラピスト次第なのかもしれない。
努力、根性、労力、尊敬する研究者が言っていた言葉だが、臨床もそうだろう。
考えて考えて考え抜くことだ。
それには物理的な時間、体力、根気が不可欠である。
世の中、そんな簡単に物事が進むはずもなく、そのプロセスに多くの学習が含まれるのだろう。
動作ができたことだけが学習ではなく、その手続きが重要なのだ。
日曜日は、県士会の仕事だ。
そういえば、プロレスラーの三沢さんが亡くなれた。
中学生時代のひーろだったのに・・・
ご冥福をお祈りします。
今日も暑いが、楽しまなければ。
夕方にはポスターのタタキ台を完成させてしまうぞ。
Only advance, there begin it !!
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