Procedure -The Fifth Edition-
神秘・神秘
金曜日は夕方から「情動・感情」の勉強会。
担当は後輩であったが、よくまとまっていた。
人間の生命を維持するために必要な場所。
大脳皮質が発達する前にのヒトを知っている場所。
まさに生命の記憶を持っている場所なのかもしれない。
大脳皮質だけでは反応が遅れてしまう。
生物の価値判断、何重にも事象を処理する脳機能システム。
本当によう出来ている。
ヒトは誰がつくったのだろうか??
情動・感情のリハビリテーションへの翻訳は難しいようで当たり前のことである。
扁桃体へはすべての感覚情報が入力される。
それは扁桃体のそれぞれの核へ情報が入力される。
それぞれの核に応じて、連絡経路が存在し結果として直接的、間接的に大脳皮質へ情報が送られる。
生物学的、つまり本能的な要素とそれらを抑制する理性の部分とがうまく調節しあっている。
少なくとも、いらないことでは学習は成立しない。
学習を成立させるためには、すくなくとも興味がなければならない。
恐怖体験が意識に上り、情動から感情へ。
それに関する事象への、逃避的行動が植えつけられる。
「拒否」へと結びつく。
痛みについても同様であり、「心の痛み」が関係するだろう。
もはや、疼痛刺激による痛みではなく雰囲気による痛みとなる。
中枢神経系の解釈と末梢からの情報の乖離であるが、ここまでくると相当やっかいである。
逆に、徒手的なマッサージ等の刺激は快をもたらす要素を含んでいるのかもしれない。
適材適所であれば問題なのだが、やりすぎるとまたマッサージ好きを作り上げてしまう。
セラピスト自身はすべての言葉、感覚刺激、行動レベルでの結果が情動・感情と結びつき記憶されていくことを頭に置いておかなければならない。
そう考えると、一方通行の訓練は成立しない。
何らかの形で対象者の考えを図らない限りは見えてこない。
対象者が望むことをすれば良いいうものではない。
それだけであればセラピストは必要がないだろう。
両通行でなければならない。
「対話」である。そして「情報」の共有である。
S-R理論のようにブラックボックスへ突っ込んではいけない。
それはセラピストでなくてもできる。
自分の手だけで操作しようというのも考え直した方が良い。
セラピストの運動学習ではなく、対象者の運動学習を求めなければならない。
いつまで、こんな議論を続けるのだろう。
誰でも同じ方法。
テクニック至上主義、マニュアル主義の産物である。
方法論ですべてを説明しようとする。
その背景にあるもの読み取れない。
それは経験で読めるものではなく科学的な根拠を有していなければならない。
基礎を学ばないから方法論しか頭に入らない。
伝えられた方法論だけで訓練を行う。
そこにはセラピストの「創発」的な思考が存在することはないだろう。
良くなる患者であればなんでもいいのだが、良くならない患者をどうするかである。
プラトーと言ってしまうのか??
逃げるのか??
土曜日は午前中からの用事を済ませ、夕方からは食事へ出かけた。
昨日も頭の中を研究のことが走り回る。
研究手法についても、何が妥当なのかはわからない。
考えれば考えるほど、謎へ謎へ・・・・・
だから研究が生まれるのかもしれない。
一回完結では研究とはいえないのかも知れない。
少し前から、「手の五百万年史」っていう本を愛読している。
読破はまだまだ先になると思うが、この本の奥行きを少し垣間見た。
無論、手についてあまり考えたことはない。
「手」とは何だろうか。
手は筋肉が少ない、筋と神経、骨、皮膚位である。
手を動かす実態はどこに存在する?
なぜ器用と不器用が存在する。
あまりにも手の持つ器用に個人差がある。
手は身体のどの部位、範囲を指しているのだろうか。
テレビでは世界柔道が行われている。
日本男子は不発に終わっている。
誤審だとは思うが・・・・
講義の準備でもするか~
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