Procedure -The Fifth Edition-
見えないよ~
最近、また嫌な天気が続いている・・・
抄録の作成もスムーズではないが、着実に前進している人間もいる。
この仮説を精密化していく過程は、自己の思考の整理となる。
特に少し仕事に慣れ出した頃のセラピストにとっては、重要な手続きだろう。
もちろんそれより経験を積んだ者も、この手続きをどのくらい踏んだかによって臨床思考能力に差が生じる。
当然、思考の精密化は簡単なものではない。
決して思いつきであってもならない。
そこには、知識に基づいた論理的な創造性を問われる。
今、つらい思いをしているセラピストも目の前の病態から目をソムケナイことだ。
自分自身もそうだが、プラトーなんて言葉を簡単に口にしてはならない。
人間は、知的生物である以上良くも悪くも学習は続けられる。
良くならないと自身のない治療を続けることに疑問はないのか?
変化がない自分の治療に疑問を持たないのか?
変なプライドを持つことで得した人間は極めて少ないだろう。
恥は瞬間だけの問題だ。
素直に頭を下げれる人間、謙虚さを持った人間の方がずっと素晴らしい。
それはプライドが低いわけではなく、専門職としてのプライドは高い。
なぜなら、目の前のす姿の見えない障害と闘うからだ。
動けないといった障害はほんの一部だ。
本当の障害は目に見えないところにある。
セラピストはそれを受け止めるだけの気持ちを持たなければならない。
それが礼儀だ。
最近、患者からの苦言も耳にした。
仕方のない部分もあるが、そうでない部分もある。
そもそもの問題に目を向けた方が良い。
従来の治療で良くなる人は問題がない。
そうでない人間にどのようにフォローするかだ。
セラピストのエゴだけで、他人の人生を変えてはならない。
重たく聞こえるが、重たい仕事なんだ。
障害は大きい、小さいではない。
障害は障害であって、大きさはその人自身が決めることだ。
セラピストの泣き言は必要ない。
目の前の困っている人をどうにかするべきだ。
それが臨床で最低限、必要なことではないだろうか?
偉そうにも聞こえるが、言語化する以上、一番気をつけたいところだ。
さて、抄録の添削をします・・・・
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