Procedure -The Fifth Edition-
錆びないように
なんとなく変な天気が続いている。
寒かったり、暑かったあり、体がその変化についていけず、気分が滅入る。
相変わらず、自己の身体との対話を続けている。
それなりに、結果もでてきたようだ。
このまま、向き合いつつ、復活への準備を進めていきたい。
もう少しで、復活だ。
もうすぐ、連休だ。
高速道もいまだに、1000円みたいだ。
これでまた、道が混むことは間違いなし。
ただ、こんなことで、景気がよくなるようには思えないが。
そもそも、安いもんに気がひかれること自体が問題ではないだろうか?
ご高齢の方は、服を修復してでも、服を着ていたと聞いたことがある。
大量生産のものを買うことだけが良いわけではなく、とっておきの一着を大事に着るのも重要ではないだろうか?
自分自身は、15年前の服を未だに来ている。
ジーンズも修理だけで、4~5回はしている。
まぁそれがいいかどうかは、好みも賛否もあうだろうが、大量生産の安いものに振り回されないようにしたい。
結局、良いものは時がたとうとも、良い。
それにつきる。
人間もそうだ。
魅力ある人間、そして苦労して手に入れたものは、錆びない。
生き続けるのだ。
安っぽい、付け焼刃では、過ぎに錆びるだろう。
自分が何を見定めて前進すべきか、考えたい。
5月だからこそ、気を引き締めておきたいもんだ。
前進あるのみ。
どうせなら、楽しまないとね。
前向きのススメ
寒暖の差は、体調に影響してくる。
体調を崩さないように、細心の注意が必要だ。
大学院は2回生になってからは、授業がほとんどなく論文作成が主な課題だ。
そのためには、実験もぼちぼち進めなければならない。
そろそろ、エンジンをかけ直して、前進することにしよう。
前進すること、つまり物事を前向きに捉えるということだ。
結果的に、好ましくなくとも、前向きな思考によるプロセスが含まれているなら、それは単なる失敗には終わらない。
仕事でも勉強でも、プライベートでもそうだが、結果は悪くとも前向きでありたい。
結果良くとも前向きでなければ、いつかその精神はほろび始めることになる。
このバランスは難しいもので、どちらが絶対的に良いともいえない。
それは、個人と社会との関係を考慮に入れなければならない。
ただし、個人的にはいつも前向きでありたい。
周囲に影響及ぼす人間が前向きでなければ、進行が停止する。
あーだの、こうだの言うのではなく、真摯に取り組むことを忘れないで欲しい。
それは若くても、歳がいっていても関係ない。
前向きに取り組む姿勢を失った時点で、魅力は薄れる。
開き直りは、時に潔く、時に醜い。
それは男性だろうが、女性だろうが関係ない。
社会の中で生きている以上、人間としての話だ。
忙しいのは、理由は何であれみな同じだ。
前進あるのみ。
楽しむことを忘れずに。
システム作動
日曜日の時点では、月曜日に起き上がれるかはわからない。
予測ができないことは、不安を生じる。
この不安は、人間の生体防御システムを作動し、色んな感覚情報を痛みとして処理し始めるのだろう。
この経験の積み重ねは、条件付けとなり、生活への支障をきたす恐れがある。
慢性疼痛、慢性心因性疼痛なるものだ。
この状態は、疼痛を感じる際に頭頂葉や島と呼ばれる部分が関与しているが、その部位よりむしろ前頭葉で感じるよう変化してくる。
これは、痛みの刺激となる情報が、痛み以外の刺激によっても痛みと感じてしまうことになる。
しかし、ある程度、痛みのメカニズム、痛みの実態を理解していれば、このような矛盾した結びつきを防ぐ一助になるに違いない。
自分もそうだが、セラピスト自身の知識が不足している気がする。
頭の中をブラッシュアップして行かなければならない。
前進あるのみだ。
腰痛も少し、落ち着いてきたので、生活リズムを元に戻そう。
楽しまなきゃね
again
痛みに関するテーマだった。
神経基盤および脳内情報処理ということだった。
神経基盤については、末梢運動器官の炎症反応時の身体反応から、疼痛発生の神経基盤にまで展開された。
講師の方の、自前のデータもあり、そのアルゴリズムには感心した。
かなりの情報量と、端的な情報提示であり、今後の臨床へ行かせそうだ。
その反面、疼痛の病態仮説への疑問も湧きあがってきた。
これに対しては、検証していく手続きが必要であろう。
脳内情報処理に関しては、同年代の研究者が講義をしてくれた。
これもまた、非常にわかりやすく、感心した。
実験機材の理解、理論を理解することの重要性を教えて頂いた気がする。
感心した。
自分も襟を正し、向き合っていくしかない。
それにしても、腰痛が再発だ。
自己の身体の捻じれが意識されだしている。
少々、自己の身体との対話をたしなみ過ぎたようだ。
なんでも、ほどほどにしておかねばならない。
しかし、今回のは、筋肉痛により惹起された感が強く、これは修正可能である。
3日の我慢と予測した。
したがって、明日には、完治するだろう。
前進あるのみだ。
腰痛も痛みの変化を楽しめるようにしたい。
1 or 2?
昨日は土曜日。
朝からの用事があったため出かけた。
そんな中ふと考えていたのが、他人、とりわけ患者の世界観を理解することだ。
認知を勉強するセラピストとしては、その世界に切り込むことが求められる。
身体観をどのように捉えるかは、切り込むための前提だろう。
身体観とは、簡単言ってしまえば、それまでことだが、非常に難しい要素が含まれる。
つまり、自己の身体そのものと、その身体に対する概念なのだ。
それは、身体図式や身体イメージ、あるいは他の表現としても用いられる。
この身体観を理解しようとした研究者は数々存在する。
Henly HeadとGordon Holmesは、脳損傷患者の観察から、姿勢図式、そして身体図式の概念を提唱した。
この身体図式は、生理学的な身体観、とりわけ運動制御にマッチした概念であると捉えられている。
そして、Shilderは、さらに感情を含めた身体イメージの概念を提唱した。
これらの研究者は1920年代ことから1930年代にかけて、主張してきた。
そういう意味では、比較的新しい考え方である。
さらに起源をたどるとすれば、フランスの哲学者のルネデカルトまでさかのぼることになるだろう。
心身一元論と二元論の問題だ。
そして、スピノザやライプニッツもこの問題への貢献者であろう。
現在では、shawn GallagherがHow the body shapes the mindの中に記した。
赤ちゃんが手を伸ばすカバーの印象的な本だ。(持っているが行方不明)
しかし、これらに結論を出すことは難しい。
ただし、身体と精神は一つなのである。
この2つを分けて書くこと自体が、二元論として見てしまっているのかもしれないが。
ただ、正直なところ物理的な身体として捉える視点も必要な気がする。
それ自体がナンセンスと言われれば、それまでかもしれない。
やはり、物理的世界に生きている以上、その視点からの解釈は意義がある。
物理的身体としての身体が破損してしまえば、修復される。
例えば、手術がその一つである。
物理的に、身体外から外力を加えることによって、身体機能回復を図ろうとする考え方だ。
当然、それで回復する、むしろそれでしか回復しえない場合もある。
この点、必要性が裏付けられる。
つまり、物理的身体は、環境と相互作用するための、一つの媒体であると考えるほうが自然なのかもしれない。
脳内に意図が存在し、それらを遂行するためには、その媒体が必要である。
その媒体は、常に身体外に働きかけることであり、環境との相互作用が求められる。
その方が自然だ。
かなり、難しい話だ。
夕方に帰宅し、その後は自己の身体との対話をたしなんだ。
少しずつ、身体の反応性が変化してきたようだ。
日曜日は、午前中が研修です。
そろそろ、執筆をはじめないとやばい時期になってきた。
あたまの中では構成ができてきたが、あとは裏付ける文献が必要だな。
論文も書かなければ。
実験もせねば。
八方ふさがりの感も否めないが、前進あるのみ。
これを楽しめるようになれば、たいがいのことが楽しいはずだ。