Procedure -The Fifth Edition-
森もあくまで木の集合体
金曜日の早朝に、英語は完成した。
荒くたい翻訳だが、なんとか終了した。
昨日と今日の境目が、微妙なまま出勤。
なんとなく、空腹感のためパンを購入していった。
微妙に食べすぎ、そのままで出勤した。
出勤後はいつと同じように、身体との対話をたしなんだ。
身体からあふれ出る、体性感覚が心地よい。
運動実行器官と中枢神経との結合を確かめることができ、「生」を感じる。
そして、いつものように臨床を始めた。
午前中は、外来が多くバタバタした。
外来を見るたびに、つくづく自主訓練の重要性を実感する。
この自主訓練は、トレーニングとしても考えることができるが、むしろどういった運動の経験を蓄積するかだ。
この主観的な、患者の体験が記憶を作り、図式化していくのに貢献する。
セラピーでのシナプス伝達効率の変化と、そして記憶として保持するためのリハーサル。
この流れは、記憶するためには不可欠な処理である。
最近思うのが、いわゆる動作訓練といわれるものの位置づけだ。
限られた時間の訓練の中で、何を求めるていくのか・・・・
個人的な印象では、訓練内の反復で動作が獲得された印象はあまり無い。
むしろ、莫大な量の反復より数回の運動実行で解決できている面もある。
もっと、問題なのはその時のawarenessだろう。
自分の身体の感覚の変化だ。
主観的なこの体験が、運動イメージをupdateし、プログラミングに貢献する。
リハビリテーションは、決して簡単なものではく、簡単にしてはいけないもんだ。
人間がそんなに簡単なら、機械かと疑いを持ってしまう。
訓練の量を確保することは、決して悪いことではない。
訓練の量に隠れてしまうために、質が失われるのかもしれない。
動作の反復による活動量の確保が、セラピーの中心的役割を演じようとしている。
セラピーとは元来、そういうものなのだろうか?
医療がfitness化している気がしないでもない。
ましてや、中枢神経疾患、末梢神経損傷もそうだが、神経のトラブルで患者さんは困っている。
わからない世界に陥り、そこから抜け出すために模索している。
動作ができることが、抜けだしたことと等価なのか?
そこにはいつも疑問を感じる。
何が正しいかは、断言できる問題でもないが、個人的には信念を持ちたい。
夕方は、郵便が届いた。
褥瘡学会からの、学術誌が郵送されてきた。
それ自体は良いのだが、その中になんと褥瘡治療のガイドラインが入っていた・・・
これは・・・先日、市販バージョンを購入したのだ。
3200円もしたのに・・・・
他の本を買えた・・・・・・少し悔しい思いだ。
欲しい本は山盛りだ。
とりあえずは、daily useと保存版にするか・・・・
その後は、翻訳した英語の手直しを行った。
あとは、power pointに変換するだけである。
読み込んで、知識を共有できればと思う。
運動イメージは本当に興味深い。
同僚とも、プロジェクトを立ち上げ模索していこうかと思う。
その後は、先輩とこれかの臨床、研究の方向性について話をした。
病棟ADL訓練へと向かう臨床への肯定と疑問と・・・・
協会が出している、セラピストの分布データのように、底辺の広いピラミッド型だ。
どうやら、どこの病院もそういった形態になりつつある。
ある程度は、仕方の無いことだが、方針によってはこの形態に拍車がかかる。
訓練士というより、動作反復要員とならぬよう・・・・・なってほしくない。
人員を駒のように扱ってろくなことはない。
あくまでも、個人のスキルが噛み合って初めて歯車が回るのだ。
電源を入れても歯車がかみ合わなければ、スムーズな回転は無理だ。
歯車は回転して、無駄な部分が削れて初めてスムーズな回転が可能となる。
それは、個人の経験でもあるだろう。
まぁ、これは自分の信念からの主張であるが。
医師とも、頚髄損傷のリハビリテーションについて話をした。
医師からの意見はごもっともである。
一方で、セラピストからの視点、つまり知覚をし続ける可能性について。
このあたりの視点と、物理的評価指標にのっとった形で、セラピーと見ることができればと思う。
良い形で、歩めれば理想的だ。
どうせなら仕事は楽しまなければ。
前進あるのみだ。
みなが良い方向へ進めることを願うしかない。
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