Procedure -The Fifth Edition-
本質はどこへ
今日は朝から、WBCを観戦しながら出勤の準備。
早朝より、テンションが高めだ。
一流選手の集中力と、ポテンシャルに関心していた。
松坂投手のすごさを改めて実感・・・
同年代ながら、尊敬致します。
久しぶりにコンタクレンズで出勤した。
身体との対話をたしなんだ後、診療業務を開始。
途中、スケージュール調整ミスがあり・・・・患者さんには迷惑をかけて申し訳なかったが・・・
まぁ色々と創発された、午前中だった。
患者さんから、少し私の研究に興味を抱いて頂いたみたいなので、少しだけ展望を説明させていただいた。
患者さん自身から、後押しの声を頂けると本当にうれしい限りである。
今の自分の、進む未知への良い動機づけとなる。
以前にもBOSSからも指導いただいたが、自分が何のために研究しているのかということだ。
非常に重要な視点であることに間違いがない。
改めというか、他者とのかかわりの中で、初めて確認していける内容なのかもしれない。
そんな自由な思考を受け入れてくれる、職場のBOSS、LaboのBOSS、そして同僚、患者へも感謝せねばならない。
人間とは人と人との間で生きる生物なんだ。
一人では生きていけないし、他者からの反応があってこそリアルな世界になる。
人間に錯覚が起るのと一緒で、概念化されやすい。
思考の中だけでは、アップデートされるが、結果がないとリアルにはならない。
あるい意味、良くできたものだ。
そういう意味では大脳皮質の教師なし学習のメリット・デメリットを感じる。
概念とは都合が良い面もあるが、やっかいなものだ。
ある頚髄損傷の患者さんが、話をしていた。
麻痺している部位を触ると、何かを感じると話をされるが、本人いわくは感覚がないという。
これは不思議な現象だ。
最近、つくづく、完全損傷・不全損傷のような表現が誤解を生みだす。
セラピストは、感覚がないものとして、訓練を組み立てるのではなく、どう身体のイメージを生成しているかの視点は持っておくべきだろう。
現在の医学での、限界点は当然あるが、質に関しては大脳皮質が生きている限り、何らかの変化が生じることを推測するのは容易だ。
この視点から、取り組むことを尚も決意。
前進あるのみだ。
なんとなく、臨床に可能性を感じた。
それはセラピストして、何か未来を感じた時間でもあった。
概念化されたものは本当に恐ろしい。
常に確認する視点は持ち続けたい。
夕方はまで、診療業務を行いその後は、朝英語のスライド修正を行った。
もう少し、つめておく必要があるだろう。
前進あるのみだな。
昭和
来年度まで、数少ない日曜日だ。
この休日をいかに過ごすかは、何となく来年度を左右しそうな気がする。
朝から、水曜日が朝英語の担当であり、そのためにpower point変換をした。
総説論文は、どうも長くなりがちである・・・・
総説自体が、まとめたものであるのでそれ以上まとめるのは、必要なものを削りかねない。
非常に、頭を使う部分でもある。
なんとか午前中でスライド変換は終了。
これは月曜にケリをつけることにする。
時間の合間を見つけ、質的研究の論文に目を通した。
色んなバリエーションがあり、質的研究の方法論が統一されていないことを実感。
どの質的研究の手法を使用したかは、かなり明確にしておかないと、意味不明になりかねない。
ここは細心の注意が必要かな。
それにしても興味深い、手法だ・・・・・
簡単なようだが、データには密着している。
質たる所以は、よくわかる。
量的指標も当然、必要なんだが、やはり質的な部分も大事にしたい。
数値には出せない、何かを示すことはできるのかもしれない。
こういったデータの蓄積も重要だ。
そこから、新たな科学が創発されてもおかしくない。
途中、ホームセンターへ書棚の購入を考え出かけたが、なんとなくしっくりこずやめた。
また、作戦を練り直すことにしよう。
帰りに、お店に立ちより、安いブッラクコーヒーを購入。
午後のお供だ。
午後からは、以前から進めていた脊髄損傷者の身体イメージ研究の、記述の概念化を進めた。
メタファーの視点から、感覚モダリティーを分類し、概念化することを試みた。
やっていて、面白いと感じた。
一応、前に一通りは書き上げているが、研究手法にのっとるためにやり直している。
しかし、発見とは身近にことがっているもので、新た身体イメージ生成への解釈が生まれた。
到達度はわからないが、論文にできそうな雰囲気がでてきたかな。
前進あるのみだ。
もっと大きな人数で、やってみたい気がした。
4月に入ったら、相談しようと思う。
途中、息抜きにyahoo動画を見ていた。
「純ブライド」という映画を見た。
何とも言えない、昭和の匂いがした。
20年くらい前のマンガの映画化らしい・・・・
個人的には、結構好きだな。
割と、昭和が好きなもので。
人間関係とは難しいものだ。
何が良いのかはわからないが・・・・
その後は、概念化の続きを行った。
今は休憩をしながら、こうしてブログを書いている。
晩は、身体との対話を楽しむことにしようかな。
寒いけど、話せる時に話しておかないと・・・
ちょいと食べすぎたもので・・・・
みがきあげ
先週の、睡眠不足がたたり、昨晩はよく寝た。
時間的には、いつもの倍近くは眠りについた。
土曜日の朝は比較的目覚めが良い。
たまには、睡眠をとらないと、体力が回復しないな。
でも、まだ一日寝ると復活できるのは。体力に恵まれている証拠だ。
土曜日は朝から、出かけた。
激しい雨と風の中、車を走らせた。
今日は、大正琴の演奏を聴く機会があった。
大正琴といえば、スーパーで流れているような音色の印象だ。
ポロンポロンと・・・・
演奏されたのは、蒲田行進曲、宇宙戦艦ヤマト・・・・わりと激しい曲が多かった。
正直、聞きごたえもあった。
自分の知識不足もあるが、琴といえば単音のイメージが強い。
ところが、今日のは一味違った。
演奏されていた方が、音楽の先生らしくピアノも教えていらっしゃるそうだ。
それもあってか、音楽性が高い。
なかなか、いい栄養になった。
古い曲の演奏あってか、それを聞いて感情的になる人もいた。
昔を思い出したのだろう。
感情をに直に働きかける音楽の力は、すごいと思った。
感情から、引き起こされる記憶。
きっとエピソード記憶なんだろう。
脳の結合の多重性を感じながら、人間を感じたエピソードだった。
夕方に帰宅し、質的研究法の本を読破。
これで2冊目だ。
なんとか概要はつかめたので、実践だな。
しかし、データ数の問題を感じので・・・・今回の研究では難しいかもしれない。
大学院では、これを使ってやってみたい気もする。
非常に興味深い、研究方法だ。
まぁまぁ、先のことはまた考えるとして・・・問題は今の研究だ。
できる限りは、分析をしてみるか。
前進あるのみだ。
その後は、靴を磨いてみた。
今回は、クリームとワックスの組み合わせを変えてみた。
ブラウンとクリームとワックスを使用し、グラデーションに黒のワックスを入れてみた。
これは前に、やった時の写真。
これが今回のやつだ。
少し、アングルが違うがひかり方も違う。
少しはpolishの腕は上達したかな。
いい感じのアンティーク感が出てきた。
靴は、ある程度育てるもんだ。
かれこれ、気がつくと1時間30分もかけていた。
磨き上げるとは、昔とは違う輝きを見せてくれるので好きだ。
人間も同じで、磨きをかけると輝きが変わるはずだ。
磨かない限り、輝くことはない。
スポットライトが当たっても、磨きがたりないものはくすんで見える。
磨きをかけないといけない。
前進あるのみだ。
森もあくまで木の集合体
金曜日の早朝に、英語は完成した。
荒くたい翻訳だが、なんとか終了した。
昨日と今日の境目が、微妙なまま出勤。
なんとなく、空腹感のためパンを購入していった。
微妙に食べすぎ、そのままで出勤した。
出勤後はいつと同じように、身体との対話をたしなんだ。
身体からあふれ出る、体性感覚が心地よい。
運動実行器官と中枢神経との結合を確かめることができ、「生」を感じる。
そして、いつものように臨床を始めた。
午前中は、外来が多くバタバタした。
外来を見るたびに、つくづく自主訓練の重要性を実感する。
この自主訓練は、トレーニングとしても考えることができるが、むしろどういった運動の経験を蓄積するかだ。
この主観的な、患者の体験が記憶を作り、図式化していくのに貢献する。
セラピーでのシナプス伝達効率の変化と、そして記憶として保持するためのリハーサル。
この流れは、記憶するためには不可欠な処理である。
最近思うのが、いわゆる動作訓練といわれるものの位置づけだ。
限られた時間の訓練の中で、何を求めるていくのか・・・・
個人的な印象では、訓練内の反復で動作が獲得された印象はあまり無い。
むしろ、莫大な量の反復より数回の運動実行で解決できている面もある。
もっと、問題なのはその時のawarenessだろう。
自分の身体の感覚の変化だ。
主観的なこの体験が、運動イメージをupdateし、プログラミングに貢献する。
リハビリテーションは、決して簡単なものではく、簡単にしてはいけないもんだ。
人間がそんなに簡単なら、機械かと疑いを持ってしまう。
訓練の量を確保することは、決して悪いことではない。
訓練の量に隠れてしまうために、質が失われるのかもしれない。
動作の反復による活動量の確保が、セラピーの中心的役割を演じようとしている。
セラピーとは元来、そういうものなのだろうか?
医療がfitness化している気がしないでもない。
ましてや、中枢神経疾患、末梢神経損傷もそうだが、神経のトラブルで患者さんは困っている。
わからない世界に陥り、そこから抜け出すために模索している。
動作ができることが、抜けだしたことと等価なのか?
そこにはいつも疑問を感じる。
何が正しいかは、断言できる問題でもないが、個人的には信念を持ちたい。
夕方は、郵便が届いた。
褥瘡学会からの、学術誌が郵送されてきた。
それ自体は良いのだが、その中になんと褥瘡治療のガイドラインが入っていた・・・
これは・・・先日、市販バージョンを購入したのだ。
3200円もしたのに・・・・
他の本を買えた・・・・・・少し悔しい思いだ。
欲しい本は山盛りだ。
とりあえずは、daily useと保存版にするか・・・・
その後は、翻訳した英語の手直しを行った。
あとは、power pointに変換するだけである。
読み込んで、知識を共有できればと思う。
運動イメージは本当に興味深い。
同僚とも、プロジェクトを立ち上げ模索していこうかと思う。
その後は、先輩とこれかの臨床、研究の方向性について話をした。
病棟ADL訓練へと向かう臨床への肯定と疑問と・・・・
協会が出している、セラピストの分布データのように、底辺の広いピラミッド型だ。
どうやら、どこの病院もそういった形態になりつつある。
ある程度は、仕方の無いことだが、方針によってはこの形態に拍車がかかる。
訓練士というより、動作反復要員とならぬよう・・・・・なってほしくない。
人員を駒のように扱ってろくなことはない。
あくまでも、個人のスキルが噛み合って初めて歯車が回るのだ。
電源を入れても歯車がかみ合わなければ、スムーズな回転は無理だ。
歯車は回転して、無駄な部分が削れて初めてスムーズな回転が可能となる。
それは、個人の経験でもあるだろう。
まぁ、これは自分の信念からの主張であるが。
医師とも、頚髄損傷のリハビリテーションについて話をした。
医師からの意見はごもっともである。
一方で、セラピストからの視点、つまり知覚をし続ける可能性について。
このあたりの視点と、物理的評価指標にのっとった形で、セラピーと見ることができればと思う。
良い形で、歩めれば理想的だ。
どうせなら仕事は楽しまなければ。
前進あるのみだ。
みなが良い方向へ進めることを願うしかない。
進行形の変化形、そして小鳥のさえずり
目途がついたところで、英語の翻訳を行い・・・どうやらそのまま就寝・・・
深夜3時を過ぎていたか・・・・
なんとか6時に目覚め、出勤の準備を。
出勤し、身体との対話をたしなんだ。
かなり、自分の身体とのinteractionも図れてきている印象だ。
朝からはミーティングへ出席し、その後はいつもの臨床へ。
そろそろ、本格的に自分へのハードルを上げることを考えた。
ハードルを上げることの意味、そして自分の信念とは何かだ。
ちょいと前の、彼なる一族に「信念を持つ者が一番強い」みたいなフレーズがあったような気がする。
思想として、信念を持つことは本当に重要だ。
それがあるい意味、自分自身を形作る信念であるかもしれない。
かといって、その信念も完結型ではない。
信念すらも何か、自分の生きている意味、考えていること自体を確かめているかもしれない。
「もし、鳥が自分は何を歌い、なぜそれを歌い、自分の中の何が歌っているのかを明確にいうことができたら、鳥は歌わないであろう」
ヴァレリーの言葉だ。
自分自身の信念も、模索だ。
臨床も、研究も何かも模索だ・・・・・
しかし、そんな模索だからこそ変化があって楽しい。
awarenessともいう。
昨日の自分でない、今日の自分。
ただし、それは昨日と今日がかけ離れているわけではない。
自分の身体への可能性。
自分の思考への可能性。
そして、自分が存在することすらの可能性だ。
決して、答えがでるわけではないが、ongoingでいい。
生きることを楽しむ。
人間だからこその営みだ。
夕方は症例検討を行った。
脳卒中の症例を提示した。
自分の臨床思考を示した。
準備不足というか、時間がたりなかったため中途半端での発表だったが、それも変化形で楽しいかもしれない。
最大限に患者を観察し、そして分析を加え、徹底的に議論する。
その解釈こそが、あらたな臨床の展開を創発させる。
目に見えるものにだまされない、仮説が必要だ。
それが臨床が科学を超える瞬間なのかもしれない。
臨床の可能性だ。
臨床家としての、可能性もそこに存在している。
セラピーが科学に勝らなければならない。
そうでない限り、EBM以上の回復はこの世に存在しなくなってしまう。
そんな仕事なら、やめた方がましだ。
患者、同僚とともに、より良い臨床を考えたい。
夕方は先輩と、臨床と研究の接点について話をした。
研究者が研究することは、非常に助かる。
ただ、臨床にいる人間も検証できる、技術を身につける必要がある。
セラピストは臨床だけできれば良いという人もありかもしれない。
もちろん、目の前の患者を回復させてこそセラピストだと思う。
一方で、その思考・技術を共有できるよう手続きを踏むことが学問として成就させるはずだ。
その両方が必要なのではないだろうか。
その意義は、維持を張らず、歩み寄るべきだ。
時間がないという人もいるが、考えることはいつでもできる。
やるかやらないか・・・・
もちろん、取り組んでいる人間は、検証を加えそしてその必要性を世に示すべきだろう。
労力は必要だが、それがプロの仕事だ。
最近、つくづく思うのは、自分がタフであるということ。
高校時代から、周囲には比較的タフな人間が多かったせいか、自分が普通だと思っていた。
自分の道を進み続けよう。
それが平和だ。
前進あるのみ。
なんとか、今晩で翻訳を終わらせます。
前進あるのみだ。