Procedure -The Fifth Edition-
忙しき中にも礼儀あり
水曜日は朝から、英語だった。
自閉症児の表情認知に関する実験研究論文だった。
臨床を知らないので、症状とのマッチができなかったが、不思議な現象であることは理解した。
古くから、取り上げられているテーマではあると思うが、なかなか一定の見解がでないようだ。
こころの部分が入ってくるだけに、余計に難しくしている可能性がある。
朝英語の参加人数も少しずつシェイプされてきた感じだ。
継続は力なり、先端に触れ続けることは、きっと意味を持ってくるはずだ。
業務が始まると、やはり気温は上昇してきた。
やぱり暑い。
このうだる暑さにた力が奪われている。
最近、スタッフの人数が増えて余計に、暑さを感じる気がする。
同時に、熱さも感じることができてば申し分がないのだが・・・・
先日、脊髄損傷後の神経可塑性の論文を読み終え、次へ取り掛かろうとしている。
しかし、研究計画もぼちぼち煮詰めていかないといけないので、そちらも勉強が必要だ。
密かに、先行研究は検索していたものの、なかなかマッチしたものが見つからない。
視点を変えた検索方法が必要なのかもしれないとおもいつつ・・・・
今回は、イメージ関係の本を5冊程購入した。
特に、乾敏郎先生の著書に触れてみようかと思う。
今までは、そこまで調べ上げたことがないので、探ってみようかと思う。
やることが多く、目が回りそうな感もあるが、前進するしかないな。
学生もは初期評価発表へ向けて、奮闘しているようだ。
大変なのは、当然である。
実習を充実させるも、そうでないものにするのも自分次第。
暗闇をもがき続けることで、きっと明かりも見出すことができるはずだ。
もがかずして、見出した答えに希望を持てるのだろうか?
自己の運動、思考もそうだが、出生したから猛烈な回数の運動、思考、そして試行錯誤を経験してきている。
そして、その経験が今になって礎となっている。
信じるためにはその裏付けが必要だ。
ルーチン化されたもの、マニュアルを導入するのも全否定ではない。
人間を相手にする仕事である以上、その中身を知っていく手続きを踏むことは非常に重要だろう。
これは、自分自身もそうで、reviewを読み鵜呑みにしない。
まとめられたものには、落とし穴があるかもしれない。
見抜く目を持ちたい。
臨床もそうだ。
自分の治療に思い込みは存在していないだろうか・・・・
思い込みだらけのような気もするが・・・・・
その思考のサイクルを外さないように、日々前進するしかない。
夕方は、勉強会だった。
前回の続きの動作分析からの臨床展開だった。
なかなか、充実した話ができたのではないだろうか?
K氏の臨床思考には、頭が下がる思いだ。
やはり、あの思考トレーニングは必要だろう。
議論によって、新たな創発が生まれるのだ。
自己完結型の思考では、新たには生まれないのかもしれない。
自己以外の他者とのインタラクションによって、induceされるものかもしれない。
前進あるのみだ。
思考あるのみ。
ぼちぼち、加速していくことにしよう。
そのスピードを楽しもう。
骨と関節のひずみ
久しぶりの実験で、段取りもままならないが、なんとか終えることができた。
ソナエアレバウレイナシで、準備はしておくものだ。
少し、イラついた面もあるが、なんとかなってラッキーだった。
やはり、研究するものの心構えとして最大限の準備をするものだ。
なんとかなるではなく、なんとかするための準備が必要だ。
そこの妥協は、倫理的にも問題になるだろう。
いくら非侵襲とはいえ、体をお借りするのだ。
常に、謙虚であるべきであろう。
少しくらいは、それがわかってもらえると嬉しいが・・・
少なくともそれを実行できない実験には関わりたくない。
不快そのものだ。
準備をしておくことが、信頼であり、純粋に学問ができる。
これだけは、自分も全うするよう心がけたい。
まぁ、結果オーライなので、良しとしよう。
それにしても毎日が暑い。
月曜日も暑く・・・・とけそうだ。
学生は若いだけあり、元気もんだ。
感心する。
自分もタフなほうではあるが、持久力はやっぱり乏しい気がする。
気合いだけでなんとか、身体を駆動させている気もするが、動けばとりあえずそれでよい。
最近、やたらと同僚から栄養をとるように言われるが、そんなに栄養が悪そうなのか・・・・?
なかなか自覚はないもので、気をつけるにこしたことがないのかもしれないな。
まぁ、このあたりの話は素直に聞き入れることにします。
フィードバック終了後は、ポスターの修正を行った。
そして、帰宅し実家より頂いた阿蘇牛のタタキを頂いた。
本格的においしい。
ありがたい限りである。
火曜日は、腰痛で目が覚めた。
今年は骨関節系に来る。
本当にくる。
本当につらい・・・・・
今年は、構造にひずみが出ているのだ。
負荷の掛け方も少し考慮が必要か・・・・
夕方は、ポスターを修正し帰宅。
あと、一息である。
前進あるのみ。
忙しいが、なんとか楽しむことにしよう。
どうせなら楽しまなきゃね。
空気を読むか~
水曜日は、朝から英語が中止になり、少し時間ができた。
日頃の蓄積された仕事を処理した。
水曜日は比較的、スムーズに一日が過ぎた。
それにしても外来患者さんが多い。
少し、飽和状態になってきた気がする。
フォローしていきたいところだが、時には担当変更も必要なのかもしれない。
夕方には、ポスターに手をつけ・・少し進めた。
なかなか、ポスターのデザインが思いつかない。
どのようにすれば、見やすく、相手に主張が伝わるかについてはかなりの検討が必要だ。
やっぱり、よくできた研究のポスターは見やすい。
センス?かなり計算しているのだろう。
結局は努力したものが、実力をつけるということだ。
自分自身の研究もそうだが、他人に迷惑をかけるときは誠意を見せることも忘れてはならない。
何でも当たり前を思っていてはだめで、自分の確実な準備が必要なことに違いないだろう。
これは口だけでは不十分であり、態度で示すことが信頼を得るというものだ。
実験を手伝うことになったが、そこだけはハキ違えないないようにして欲しい。
空気が読めない人間と判断されてしまうことになる。
最低限のルールと、それなりの誠意を見せることは最低限だろう。
人間として、社会人として。
社会に貢献する人間が、おろそかにしてはいけないことお一つだ。
木曜日もスムーズに一日を終えた気がする。
昼間の暑さと空調による、体の不快感は否めないようだ。
夕方はポスター作成に向き合い、大まかには形ができた。
あとは、微調整が必要だ。
というより、もう一ひねりか・・・・
金曜日は、朝から暑かった。
訓練もぼちぼちと順調に進んでいるかな?
もっともっと深く掘り下げて、追及していくようにしたい。
学生の初期評価発表も来週に決まり、少し踏ん張りどころだ。
学生を早く帰らせることも重要だが、教育することも重要だ。
当然、限度はあるが。
そもそも臨床にいるセラピストがその視点を持つ必要があるだろう。
適当な人間ほど、学生指導に不快感?というより自分の治療を説明できないことに不快感を感じるのだろう。
きっと・・・・
教育し、後輩を育てるという視点を持たなければならないだろう。
人間は、自分ができないことほど、他人を攻撃する修正がある。
それを肝に銘じて、もう一度考え直してほしいと思う。
自分の発言には責任を持つことだ。
何も考えてないとか開きなおるのは子供の時代だけで十分だ。
社会人として、見通しをたてた発言は必要だろう。
そんなことでは、相手にされなくなってしまう。
空気を読むとは、文脈を読むことだ。
何か愚痴っぽくなってきたのでこのアタリでやめておこう。
前進あるのみだ。
いつも、どんな時も正念場ってのはあるもんだ。
踏ん張りきれるか流されるかは、自分次第だ。
触る?
ぼちぼちと作業に取り掛かり、それなりにポスターのたたき台は完成させた。
もちろん、ここからの作業がとてつもなく大変にはなってくる。
後輩達もそれぞれの視点から、臨床を追求するために職場へ来ていたようだ。
普通に仕事をしていた人もいるが。
少し、触覚について議論をする機会があった。
触覚自体の理解は本当に難しい。
触るという事自体が、非常に複合的な感覚が含まれている。
日常生活では、受動的に触れられることが少なく、むしろ能動的に運動していることが多い。
そういう意味では、Gibsonのactive touchが重要な視点になってくる。
つまり、触ることには運動が含まれていることだ。
したがって、単純に触覚が入力される経路だけで触覚を理解することは難しい。
当然、そこには視覚も含まれくるため、見ることによる予測が関与するはずだ。
これを含めた視点で解釈していくほうが、臨床的な気がする。
事の発端は触覚過敏という現象についてどのように理解するかということだ。
どうやら、小児分野でそういった事例があるらしい・・・
もちろん、認知発達にも影響されるとはおもうが、その状況によって反応が変化するかが一つの視点になるのかもしれない。
それが、CNSの階層性の中で、どこでトラブルが生じているかが検討課題だろう。
単純に、器質的病変があれば話は別だが、それ以外での過敏とはなんだろうか。
機械的な入力がなされ、そのものが知覚されているか否かは見極める必要がありそうだ。
もちろん、運動も含まれるため・・・・・触れることがどのように個体内に表象されているかは重要だろう。
とはいえ、実際にケースを見ているわけではないのでよくわからないのが正直なところである。
月曜日は、朝から残務整理を行った。
そいうえば、腰痛を発症したのも先週のこの日だった。
今は腰痛が比較的落ち着いているが、悪夢が頭をよぎる。
今回は、なんとか克服できたと思っている。
結局は、自己の身体に対する認識と現実にギャップが生じていたのだろう。
記憶された運動戦略に踊らされ、末梢器官の反応性にもはやきづかなくなっている。
自己を知らないということは、本当に恐ろしい。
海図とコンパスを持たない航海と同じで、無謀そのものだ。
そして、挙句の果てに座礁する・・・・・
つまり、腰痛だ。
なんとも、辛い話ではあるがきっとそれが現実なのだろう。
やはじ、自己を知る手続きとして運動経験によって裏づけられる身体との対話が重要である。
その手続きは、継続されることで恒常性が保たれ、何かをきっかけに破綻をきたす。
その原因にはいろいろあるとは思うが・・・・・
月曜日は、帰宅後ポスター用の映像を整理した。
ここからが、気合いのいる作業になる。
前進あるのみだ。
火曜日は、朝から残務整理を行った。
夕方は大学院の授業であり、同級生の研究計画についてディスカッションを行った。
もう少し、書いておきたいところだが・・・今度は頚に痛みが出現してきた・・・・・
まぁ・・・・前進あるのみだ。
どうせなら、何でも楽しむことにしよう。
暑さから生まれる創造性
職場は、まだクーラーがついておらず・・・予想通りの暑さであった。
何もしてなくても、体力が奪われてしまう・・・・
少々、きついのが正直なところだ。
人間の頭は、何でも概念化してしまうもので、その善し悪しもある。
ある程度の柔軟性が、学習のためには重要な一要素になるのかもしれない。
よく、頭が硬いとか言ったりするが、まさしく概念化された象徴だろう。
感覚障害が生じている場合、感覚無いという記述をよく耳にする。
確かに感覚が失われているのだろう。
一方で、疑問もある。
人間の体はよくできているもので、多重に感覚入力が行われている。
もちろん、下行性の運動経路も同様であり、多重に再現されている。
反対側を下行するものもあれば同側もある。
感覚も同様である。
階層性の視点からは、どのレベルで交叉して入力されるのかは問題になるかもしれないが、多重であることに違いない。
連合野の機能からもそれは推測できる。
つまり、primary areaに入力された情報が、高次の領域で処理されるにつて、身体の形に反応するようになる。
さらに、この処理は両側で処理されているのだ。
そこから考えられることは、感覚が失われるとはどういう現象なのだろうか?
完全に感覚が失われた状況とは、どうも考えにくい気がする。
そういう意味では、概念化が働くのかもしれない。
以前に、頚髄損傷の方に麻痺域の感覚についてお聞きしたことがある。
その中では、自分の中では感覚がないわけではないが、完全麻痺や損傷以下は感覚がないと、医師から伝えられたという。
診断上、医師の発言は適格そのものである。
もちろん、その麻痺域の身体機能が実用的になるとも軽々しく言えるものでもないだろう。
しかし、セラピストの視点からは、その麻痺した身体を含めて動作獲得を目指さなければならない。
そうなると、その感覚がないわけでもない身体について考える必要がある。
そのケースでは、麻痺域機能に左右差があり姿勢の非対称性による二次的な問題が浮上していた。
感覚がないと思っている身体によって、問題が生じていたのだ。
視点を変え、アプローチを試みた。
曖昧な感覚と具体化していくことによって、その諸問題の一部は解決することができた。
要するに、感覚が無いという概念化が時として、残存する感覚をも失ってしまう。
片麻痺においても同様のことが言えるのかもしれない。
当然、まったく同じ現象とは言えないが、類似した点はありうるだろう。
やはり、注意を焦点化し残された感覚へ眼を向けていく視点が必要だ。
曖昧にしすぎることによって、見えなくなってしまうのかもしれない。
学習段階の視点からもそうかもしれない。
最も注意を必要とする認知段階、そして連合、自動と続いていく。
そもそものやり方と通り越して、運動を実行することにも可否を唱えなければならない。
それは症例によって、きっちりと見極める視点を持つことが必要だ。
やっているうちに覚えるだろうではなく、いかにして覚えるかを考えなければならない。
それには、莫大な時間を要するのが事実かもしれない。
2名の後輩が、真剣に患者と向き合っている。
彼らの姿勢には、自分の襟を正さなければならない。
彼らの担当患者、そしてセラピストとしての彼らには、執念を感じる。
臨床家として真摯に、患者と向き合う姿勢を改めて思い起こした。
前進するためには、必要だ。
「向き合う」ということは、単純に教えるだけのことではないのだろう。
まさに、双方向でなければならないのだ。
きっと、その姿勢は相手にも伝わり、本当の意味での学習していう基礎(能動的)ができあがる気がする。
セラピスト次第なのかもしれない。
努力、根性、労力、尊敬する研究者が言っていた言葉だが、臨床もそうだろう。
考えて考えて考え抜くことだ。
それには物理的な時間、体力、根気が不可欠である。
世の中、そんな簡単に物事が進むはずもなく、そのプロセスに多くの学習が含まれるのだろう。
動作ができたことだけが学習ではなく、その手続きが重要なのだ。
日曜日は、県士会の仕事だ。
そういえば、プロレスラーの三沢さんが亡くなれた。
中学生時代のひーろだったのに・・・
ご冥福をお祈りします。
今日も暑いが、楽しまなければ。
夕方にはポスターのタタキ台を完成させてしまうぞ。
Only advance, there begin it !!