Procedure -The Fifth Edition-
上から下から
日本の異常気象である。
まぁそんなことも仕事には、特に関係なく、出勤した。
朝から身体との対話を行った。
やはり、朝から対話することは、その日の過ごし方が変わる。
常に前進し続けるためには、精神と身体との相互作用は不可欠だ。
相互作用するということだ。
しかし、その相互作用するということは、非常に難しい一側面を持つ。
特に、患者との関係においては、信頼関係を踏まえた相互作用が必要だろう。
一方通行では、相互作用ではない。
私の知っている、患者家族は最高のセラピストだと思っている。
その方は、脳損傷後遺症の患者とその家族である。
患者は、いわゆる重度四肢麻痺と言われる状態であり、意識が清明ともいえない。
その日の調子、タイミングによっては眠ることがある。
逆に、調子の良い日には、僅かな四肢の運動と眼球運動で答えてくれているよう気がする。
そこだけは、なかなか確信を持ち切れない点でもある。
この状態をどうとらえるかだ。
意見は様々あるだろう。
この現象をどう見るのかだ。
この現象を受け入れ、理解することが重要ではないだろうか。
こういった患者を担当して何を思うだろうか?
確かに、意思疎通の点ではslowな部分はある。
それを見極める視点が必要ではないだろうか?
四肢の硬さがすべてじゃない。
運動できることだけがすべてではない。
おそらく状態からだけでは、重度という印象を持つに違いない。
しかし、家族の方はそこが違う。
確実に、本人のプロセスを見ている。
そして、感じている。
プロセスは、思考のプロセスだ。
これに気がつくかどうかは、本人を理解することに大きな差を生み出すだろう。
何も言葉を発しない、患者の目の奥に何が見えているのか?
身体運動は生じずとも、思考は生き続けている。
思考が生き続けている限り、2人称の関係性を求めていくべきだろう。
前進あるのみ。
春は、色々と考えることが増えてしまうのか。
トップダウンは、非常に重要だ。
しかし、そのトップダウンが誤りであれば、結果としての運動も誤りとなる。
それを修正するためには、ボトムアップ処理が必要だ。
ボトムアップ処理を無視したトップダウン処理は、錯覚と呼ぶ。
そして、それは高齢者の転倒とも繋がる。
つまり、トップダウンとボトムアップの両方が必要なのだ。
そうすることで、身体は機能している。
身体とシステムとして捉えるのであれば、社会、そして会社も同様であろう。
そこの整合性が、保たれなければ、堕落していくのみだ。
運動イメージトレーニングも同様であり、両刃の剣である。
イメージは、言語により修正可能である。
トップダウンは、運動なくとも修正可能である。
しかし、それが正解かどうかは、運動、とりわけ身体の感覚が教えてくれる。
一方通行は、好まない。
前進あるのみ
楽しむことは忘れない。
寒暖の差
比較的、温暖な日であった。
職場へは、少し早目に出勤し、身体との対話をたしなんだ。
精神と身体との整合性は、心地が良い。
不明確なもの、中途半端なものに対しては、脳が勝手に判断する。
ある種、錯覚に近いような状態だ。
人間が、友人の顔をあまり見ずとも、文脈から判断できてしまうのも、そういった思い込み、勝手な脳の判断である。
それは、脳内でのショートカットが出来上がっている証である。
状況によっては、良い場合もあるが、身体においては不良姿勢や怪我に繋がるのだろう。
投げかけたものと投げかけられたもののレスポンス。
この反応が重要だ。
何でも一方通行は、方向修正ができない。
これはセラピーにおいても同様であり、一方通行は必ずしも良い結果を導かない。
とりわけ、セラピーはJAZZのようなであるべきかもしれない。
その状況に合わせて、演奏し共鳴するということだ。
現象学的に捉え、冷静に分析を加える。
そして、治療へと結び付ける。
このプロセスが重要だ。
人間は、簡略化しようとする修正があり、見落としをつくる。
それはセラピストとしての経験が増せば増すほど、その危険は高まる。
そこまで、確認しなくてもわかった気になってしまうということだ。
これが最も危険である。
ある種、間違ったエビデンスの理解もその一端かもしれない。
わからないなら、相談することを忘れていけない。
次第に、疑心暗鬼に陥らざるを得ない。
ショートカットし過ぎた脳に、通行止めを。
思い込みには、気をつけたいもんだ。
前進あるのみ。
もちろん楽しまなきゃいけません。
つら~い雨
週明けの雨は、若干気分が滅入る。
朝は、少し早い目に職場へ到着し、自己の身体との対話をたしなんだ。
週末の運動不足もあり、身体のきしみを感じた。
そういう意味では、環境への相互作用ができていないのかもしれない。
週末のアルコールが原因か?
午後位には、なんとか調子が戻ってきた。
週末で休みは嬉しいが、逆に調子が狂ってしまう自分もいる。
よく言えば、イチローのように毎日のペースを崩さない。
少し、無理がありそうだ。
もう少し、適応範囲が広がるとうれしいのだが。
生活リズムはやっぱり重要だ。
規則正しく、生活することを心がけよう。
真面目に。
夕方は、会議に出席した。
どこもそうだろうが、色んな問題がある。
さまざまな方針、戦略があるとは思うが、その本質を理解するように心がけたい。
難しいことだが。
しかし、セラピストとは技術者であり、大人数を管理することに慣れていないのだろう。
上司が部下を守るなら、上司はかなりしっかりしてもらわないといけない。
納得できる説明をするように心がけてもらいたい。
人間の感覚と同じで、中途半端な状態であると、当然トップダウン的に制御を試みるだろう。
それは言い方を変えれば、思い込みともいえるが、その状態を引き起こしてしまう。
ボトムアップ処理を着実にできることも重要なのだ。
その相互作用によって、誤差修正、適応的戦略へと組織化されていくのだ。
そりゃ、意味がわからなければ、無理やりにでもトップダウンで知覚を生み出そうとする。
システムとして、機能する必要がある。
もう、そろそろどんぶり勘定はやめてもらいたい。
感情をあらわにしてもだめだ。
システムの構築。
ここに専念すべきだ。
システムが機能していなければ、ショートカット、使用されない回路がつくられる。
それは、本来のポテンシャルを発揮できないだけでなく、過剰な負担を生じさせるだけだ。
理解しよう。
自分の足元をみる。
少々、愚痴っぽくなってしまった。
前進あるのみだ。
楽しみたいもんだ。
おめでとうございます
朝から準備をして出かけた。
一応、スーツは着たけど、慣れないもので異様に疲れてくる。
まぁ、仕方のないことだ。
電車を乗り継ぎ、現地へ集合。
下町をフラフラ歩き、協会へ到着した。
カトリック式の挙式で厳かな雰囲気があってよかった。
その後、披露宴にも参加させて頂き、一緒に祝福をさせてもらった。
披露宴も、新郎新婦の手作り感があり、いい雰囲気だったように思う。
末永く、お幸せに。
その後は、帰りに友人とホルモンを食べに出かけた。
ホルモンを食べつつ、お互いの今後の方向性について話をした。
30歳にもなると、これらかの自分についてよく考えるようになる。
それも当然のことだ。
先が見えないが、見るしかない。
何か、20代の時とは違う現実を、リアルに突き付けられている気がする。
結局、この先を決めるのは、自分に他ならないが、なかなか難しい部分もある。
過小評価の自分なのか、過大評価の自分なのか、考えても結論は出ない。
結果はあくまでも結果であるが、されど結果である。
物事には、両義性があり、一概に善し悪しは判断できないものだ。
そういう意味では、なすがままの方が良いのか?
それもまたわからない。
これらかの決定づけるだけの、ものが無いのも一因なのかもしれない。
それは現実という鎖でつくられた足かせか?
生きている限り、悩み続けるのだろう。
しかし、前進することを忘れてはならない。
決心、つまり自己決定することは、相当の覚悟が必要だ。
それは、精神的な変化でもあるが、その行動により引き起こされる現実の変化も付随する。
転職、進学、結婚、留学、その他、、、、、
まぁ何でもそうだ。
仕方ない。
結果に対して、仕方ないといえる勇気があれば、前進し続けれられるだろう。
それは何に学ぶべきなのか?
ニュースでは、タイのバンコクで報道カメラマンの方が殺害された。
近隣諸国ながら、恐いものだ。
といっても、情けないことに、なぜバンコクで暴動が起こっているのかを知らない。
恥ずかしい限りだ。
タイ、東南アジアの発展途上国といわれる国々の不安定な安全。
もう少し、学ばなければならない気がする。
結局、何も知らない自分に気づく。
しかし、戦後の日本もそういう時期があったことに違いない。
学生運動がそうであったように、国民の不満が爆発したのだろう。
しかし、その背景にはそれを支持する近隣諸国の陰もチラホラみえる。
代理戦争のようなものが、世界のどこかで起こるのはこのためだ。
自由を得ることの難しさをつくづく感じる。
これもまた、自己決定だ。
一人一人の自己決定が、時に大きな力を生み出すのだ。
やはり、細かくみれば一人であっても、その自己決定には、重要な意味を持ちえるのかもしれない。
現実を払拭できる位の思い切りが必要か。
前進あるのみだ。
地に足をつける
桜も散りだした今日この頃。
今年の桜は、比較的長持ちしているような気がする。
桜も、その年によって調子の善し悪しがあるようだ。
その点では、植物も動物も同じなのかもしれない。
いつもいつも調子が良いわけでもなく、調子に合わせて生きるということだ。
それが生物なのか?
調子が悪い時も、自己を受容することも重要なのかもしれない。
しかし、その水面下ではたくましく根を張り、次の自分のために準備をしておくことだ。
身体は屈しすとも、精神は屈せず。
地道に準備することだ。
その年、その瞬間に旬というものだあるのだろう。
いつくるかわかない、その瞬間のために地道に準備をしておくのだ。
それをあきらめ、眼の前のものに踊らされると、足元はすくわれてしまう。
バブルの日本と同じだ。
急成長、そしてその余裕からのおごり。
それは、一気に自己をならくの底へたたき落とされる。
きっとそんなものなのだろう。
ヒトの運動もそうだ。
廃用を予防することも重要だ。
しかし、地道に神経ネットワークを構築することも重要だ。
そのプロセスを積み上げていくことは、次の自分への礎である。
運動だけではない。
人間関係もそうだ。
地道にネットワークをつくることだ。
礎をなるネットワークは、切れることはない。
表面上のネットワークは、自己にとって明白であり、顕在化されやすい。
礎は、水面下であり、潜在的だ。
それを忘れないことだ。
目前の関係性に着目しないことだ。
言葉なくとも、繋がりは失せず。
そんなものだ。
表面上の慣れ合いは、後に足元をすくわれるだろう。
そんなもんだ。
昨日は、抄録の添削に大学へ行った。
ぼちぼち、抄録はOKを頂き、登録することだ。
前進あるのみだ。
その後は、ラボの業績の整理作業を行った。
毎年、大変な作業である。
いつも、同じ職場の同僚が進めてくれている。
御苦労様です。
ラボのみなさんも感謝して下さい。
と、声を大にして言いたいものです。
人間は暗黙の作業を知らないものだ。
表面上のものだけを、取り上げる習性がある。
それが当然だろうが、それはまだまだ青い。
積み上げられたものの上に、存在するのだ。
人は時として、自分一人で成り上がったと思いこむ。
それは大きな間違いで、それを補助してくれる仲間が必ずいる。
それを忘れないことだ。
それを忘れてしまう人間は、本質を見失うだろう。
若いが故、幼いが故ということはあるかもしれないが、そういう面で成長が無いのは哀れにしか思えない。
それは所詮、マスコットにしか過ぎないのだ。
地に足をつけることを忘れないように。
それは自分自身もそうで、今あるのは周囲の人間の補助のおかげだ。
感謝を忘れないようにしたい。
ここに書くのも、改めて認識するためだ。
いつもありがとうございます。
この気持ちを忘れないようにしたい。
前進あるのみ。
前進、楽しむ、感謝、この相互作用だ。